
こんばんは、草太です。
僕らは一体何のために生きているんでしょうか。意味や目的なんてないのかもしれないけど、そしたらなんで言葉や感情という余計なものを兼ね備えているのでしょうか。
この前、インターネットの記事で「植物はストレスを感じると超音波の悲鳴をあげているという研究結果が出た」っていうのを読みました。
さらっとしか読んでいないのでこの部分しか覚えていないんですが、誰がどうやってこれを「悲鳴」だと判断したんでしょうか。
多分「ストレスからくる反応(超音波)はきっとネガティブなやつだべ!こりゃ悲鳴だべな!」ってことになったんだと思います。わかんないけど。
我々人間も、日々たくさんのストレスを感じながら生きています。学校とか仕事とかね。
人や環境によっては、死んだ方がまし っていう状況にもなると思います。
でもどうにか踏みとどまれたりするんですよね。
踏みとどまれる人はきっと、「死」に対して「苦しそう・痛そう・怖い」という印象を持っている人です。僕もこのひとりだったりする時があります。
ここで決断をしてしまう人はきっと「このまま生きる苦しみ>死ぬ恐怖」っていうことなんだと思います。
まぁ、分からんでもないです。
もし僕が、「全く苦しまずに死ねるけど、死ぬ?」って聞かれたらおそらく死んじゃいますね。
だって生きるの大変だもん。
勘違いしないでほしいのは、殺してくれって言っているわけではないってことです。
死ぬことへの恐怖は常にあります。
この感情や記憶や思い出はどうなるんだろうっていう恐怖が大きいです。
その次に、痛みや苦しみはどのくらいなんだろうっていう恐怖。
でも生きていることの方がよっぽど苦しいのかもしれないって考える時もあります。
なにが苦しいってね、良いことを言ってくれるような人に限って車の窓からタバコの灰を捨てたりすることですよね。
僕は心の底から尊敬したいのに、みんなが当たり前にダメって言っていることを平気でしたりするんですよ。人って。
僕も完璧な人間ではないので、何度だって失敗するし、何度だって反省するし、今この瞬間にも謝りたい人はたくさんいます。
だから、僕が尊敬していたい人だけは、せめて僕の前では完璧でいてほしかったのに、ダメなことをしているところが目に入ってくる。
結局、みんな僕と同じようなダメ人間ばかりに見えてしまう。
過去に僕を救ってくれたあの人も、今後関わっていくかもしれないあの人も、どこかで何かダメなことをしているのかと思うと、こんな世界に生きてて何になるんだという気持ちにもなってしまう。
あとは死ぬのが苦しくさえなければいつでも用意は整っているつもりだし生きることへの執念はそんなにない。死人の髪を抜いてカツラを作ろうと思うほど、頑張ろうとは思わない。
でもどうせ生きているんだったら、ただただ楽しいことをしていたい。
でもこの世界には、他人が楽しそうにしていることを迷惑に思う人がいる。
僕はなるべく周りには迷惑をかけないようにしたいから、こういうところもとても気にかかる。
苦しい仕事は当然したくないのに、「苦しんででも仕事しろ」という人もいる。
死ぬことさえ「なんて自分勝手なんだ」といって許してくれないような世界だ。
なんでわざわざ人間なんかに生まれてきてしまったのか。
いっそ音楽そのものに生まれたかったよ。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。